Gデザイナー震災体験記
あの日の回想記録と現状。幸形ノブユキ



震災後間も無くの青木商店街・青木市場January1996 KOBE earthquake!!!!

神戸市東灘区青木(おおぎ)

1995.1.17まで僕たちは神戸市東灘区青木という街に住んでいた。僕たち夫婦と子供2人が市営青木南住宅(14階建)の6階、妻の両親は目と鼻の先の青木商店街で和菓子屋を営んでいた。
僕はDTPデザイナー。自宅のMacを大阪の会社とつないで仕事をしていた。
阪神青木はフェリー乗り場があったり、湾岸線の奇麗な橋が見える海沿いの街だが、山手と違ってガチャガチャとした庶民的な風情のある所だった。あの日までは。

どのくらい揺れたのか?

語り尽くされているが、これは体験した人でなければ絶対に分からない。だがあえて、どのくらい揺れたかっていうと、バーテンダーがシェィカーを振るでしょ、あの手つきを力いっぱいオモイッキリ早く縦に30cmから50cm動かしてみてほしい。40秒間位それを続ける。(必ず40秒間振り続けてほしい)どうです、疲れたでしょ? 僕たちはその中に生きていた! 場所によっても違うが東灘区の僕らがいたところは、そんな感じだった。その破壊力は凄まじい。ケッコウ重たい電子レンジが隣の部屋まで飛ぶ、ホントに空中を。タンス、食器棚、オーディオラック、冷蔵庫など立っているものは全て倒れ、鉄製の玄関ドア、サッシ等は曲がって外れ、セメントの壁が割れて外が見える、押し入れの中の物は戸が外れて全て部屋の中に散乱する。僕らは頑丈な市営住宅の6階だったが、あの時はホントにビルごと崩れると思った。だが、建っていた!。家屋が倒壊してやっとの思いで脱出した妻の親友とか、とにかく自分の居る天井、床が抜け落ちる怖さは僕にも想像できない。だが、抜けると思っただけでも今まで生きてて断トツに怖かった。地震の間「ワァーーー」と叫び続けた。それは、「死ぬ!」と体が感じる、生命を脅かされる本能的な怖さだ。一年経った今もふと思いだす。

空襲か?これが原爆か!

早朝だったのでまだ薄暗い。自分の部屋なのにどこがどうなってるのか見当もつかない。いや、何があったのかも分からなかった。「ゴォーーーーー」という生まれて初めて聞くモノスゴイ地鳴りの音、大型ジェットのエンジン音を何十倍も大きくしたら地面も揺れるでしょ、音と振動が一緒になって体が包まれる感じ、ああいう音がする。で、激しく揺れる、揺れ続ける。僕はとっさに妻と二人の子供を布団ごとテーブルの下に引きずり込んでいた。長男(当時6才)の寝ていた布団の上にはかなり重たいタンスが倒れてきた。だが、寝ぞうの悪さが幸いし間一髪助かった。縦に、横に、また縦に、僕は必死でテーブルの足を押さえた。ガンガンとテーブルが動き回る。ガツガツと建物が縦に跳びはねる感じ(縦に伸び縮みしてる感じ)の音、このままでは建物が崩れる、本能的にそう思い、テーブルを一寸でも窓側へ押そうと頑張ったことを覚えている。激しく横に揺れ、小刻みに縦に揺れ、必死の格闘と絶叫がつづいた、、、、、、、、、ん? 揺れがおさまった。しばし放心状態。妻と子供に声をかけてみる。みんな生きてる(! ! ! ! ! !)。だが、今度は、「シーーーーーン」って耳に聞こえるくらいの静けさに変わった。部屋の中なのに風が吹いている。冷たい風が、吹いてる。霧の様に外が白く見える。人の声が全くしない、生きてるのは僕らだけなのか? 空襲か? これが原爆か? 全滅したのか? 孤独感、恐怖感が込上げてくる。いつ頃からなのか、どこからなのか、沈黙の中に火災報知器の音だけが聞こえる(その時まさか地震だなんて想像も出来ない。)

上も下も火事だ!

ホントはテーブルから出るのがとても怖かったが、恐る恐る外の様子を見に起き上がった。そこに広がった部屋の中の散乱した様子にぼう然としたが、すぐ気を取り戻した。きな臭いからだ。またしても本能的な緊張感に包まれる。「落ち着け、落ち着け」我をなだめながら、瓦礫と化した部屋の中をベランダまで行こうと考えた。四方からタンスやらオーディオラックやら食器棚が倒れ込み部屋中食器やガラスの破片、衣類、電気製品が飛び散っている、蛍光灯が天井から落ちて部屋中に散乱している。寝ていたので当然素足。倒れたタンスとか家具の上をつたって何とかベランダにたどり着いた。アルミサッシがよれ曲がり破裂するように割れている。上を見るとこの住宅の13階付近から火の手が上がっている。(やばい!)ここでスリッパを履いた。今度は玄関側の様子を見に行った。もう玄関付近は真っ赤だ、かなりきな臭い。すぐ隣の関西スーパーか商店街が燃えている様に見える(実際は関西スーパーの向こう側の青木市場から燃え上がる火柱だった)。その火柱の大きいこと、大きいこと。この6階まで届くような勢いだ。とにかく早く逃げなければ! 玄関の鉄扉がヘシ曲がりドアチェーンをブッチギリ全開している。そこから外の様子が分かるのだ。両方から火の手がせまる。しかし、慌てるな、慌てるな。この頃からだったろうか、隣室の人の声があちらこちらと聞こえだした。 「火事だ・・・」「ドアが開かない・・・」「こっちが開いてる・・・」だが、確かに近隣の人も生きてる、孤立感からは逃れた。だが、早く何とかしなければ。部屋の中はかなりきな臭い、階段から降りれるのか?煙がまん延するまでにはまだ、少し時間はあるはず。落ち着け、落ち着け。燃えているのはここより上の階だ。それにあの大きな関西スーパーが全焼するまでは多少時間が稼げるはず、、、。

妻に何と言おう

OGI MAP だが同時に、大変なことになってる事に気付く。今燃えているのは青木商店街の方向だ。絶望的な火柱が上がっている。物凄い火災が商店街中を襲っている。家屋は倒れている。そこには妻の両親がいる。おじいちゃんと、おばあちゃんが。いる、、、、、、。だが、今は、この子たちをなんとしても助けなければ。この時、僕はまだハッキリと地震という意識を持たないままでいた。だから、妻に言った。「今、外は凄い火災だ。これから先どんなことがあるか分からない。戦争の様な風景になってる、真冬の荒野、砂漠に出るようなものだからそのつもりで。何があろうともこの子たちの事だけ考えてくれ」こんな内容を説明した。妻はうなずいてくれた。かなり寒いし、きっと今晩は野宿だと悟ったので厚着をしたいのだが、ガラスの破片が服に刺さっていてとても着ることができない。ベランダに洗濯物が干してあったのが無事だった、これを着た。できるだけ商店街の方を妻に見せないようにしながら、玄関側から急いで非常階段を降りた。階段を下りるとき他の人と出会った、お互い今までの無事を喜びあった。外に出てまたまたびっくり、道の亀裂、家が倒壊、電柱が倒れ車の上、電線が道をはい、辺りじゅうからガスが吹き出ている。この時僕ははっきりと「地震だったんだ」と気付いた。43号線を伝って少し離れた車の駐車場へと向かった。ワゴン車だったので、これが無事なら寒さと寝床を確保できると思ったからだ。そして、避難所、公園もこの方向にある。かなりガス臭い。だが、何とか駐車場へとたどり着けた。ここならまず安心だ。ここに妻と子供を置いて急いで商店街へと引き返した。

青木商店街焼失

目の前の阪神電車「青木駅」では回送電車が脱線している、店舗は倒壊し、その上、物凄い勢いで燃え上がっている。しかし、おじいちゃん、おばあちゃんの寝ている店とはちょうど反対側から燃えているようだ。とにかく急いで近くまで行くと、呆然と立ち尽くすおじいちゃん達2人を見つけた! よかった。今まさにお店は焼けようとしているのだが、お互いに全員無事をただひたすら喜びあった。あの壮絶な状態の中、生きてるだけで充分だ。僕は実際9割以上あきらめていた。実際そうとしか思えない状況なのだから。ガスの充満する道を少し急ぎながら、おじいちゃんとおばあちゃんを妻たちの退避する駐車場へ。車の前で妻とおばあちゃんはへたりこむように座って向かい合っている。とにかく家族全員の無事は確認できた!!! おじいちゃんと僕は、再び火柱と黒煙に包まれる青木商店街へ。商店街全体が火の海。でもどうしようもない。僕はこんな、生き物のような火の塊を初めて見た。家屋の中をグルグルと渦巻きながら、その高温な塊にただ近寄るだけで全てを発火させてゆく。次々と。うちのおじいちゃんとおばあちゃんのお店と工場(和菓子の製造販売)も間も無く全焼することは、火の勢いを見てたら分かる。だって、こんな街一つ飲み込む大火災なのに消防車が1台だけ。後から青木の自衛消防車も出動したが水が断水して出ない、これじゃ消防車と言えない。しばらくして、500m程離れたフェリー乗り場からポンプ車で海水を汲上げて「チョロチョロ」水が出た。けれど、まさに焼け石に水。もはや、あの火の塊を止めることは出来ない。だれにも。さらに、人間の愚かさを知らされる事件へと、、、。

消火を妨げる43号線の車

燃えている青木商店街と、給水している海の間には、国道43号線(片側4車線の大きな国道)がはしっている。当然、消防ホースはこの国道を横切ることになる。ただでさえ「チョロチョロ」としか出ないのに、43号線を逃げる車たちによって踏み付けられ、ほとんど水がでない、そこら中から水が漏れている。今まさに我が店に火が移ろうとする店の奥さんやご主人が43号線に飛び出て車を制止しようとするが、逃げるほうも必死だ。誰も止まらない。「お願いします、お願いします、、、」だが、誰も止まらない。信号機も動いてないし、警官もいない。こうなれば強硬手段しかない! (僕ら皆が頭に来てたのもてつだって) その交差点の角の酒屋さんから崩れ出ているビール瓶のケースを道に押しだしたり、ビールの空き瓶などを火炎瓶のように道に向かって投げた。(あくまで道をふさぐためで、けっして車に投げたのではない!)こうして徐々に片側4車線の道幅を(両車線とも)1車線にふさいだ。で、この1車線にホースの高さより少し高い傾斜した鉄板(歩道から駐車場に入るところに設置してある鉄板を少し拝借したのだ)を置いて、ホースを守った。この作業を助けてくれた人がいた。大きなトレーラーの運転手さんが車線をまたぐように斜めに停めてくれたのである。これは助かった。一時渋滞したが、無事ホース保護作戦?は成功し、この直後警察の方が駆付け交通整理も始まり一件落着した。その後も皆一体になってホースのやり取りを手伝ったりしたのだが商店街の火の手はいっこうに衰えなかった。結局半日燃え続け昼過ぎに青木商店街・青木市場はほんの一角を残して全焼、自然鎮火した。おじいちゃんは店の最後を見届けるため最後までその場を離れようとしなかった。「ああ、火がついた、もうあかんわ」言いながら、煙草をすっていた。(他ではガス漏れで煙草は吸えないが大火災の商店街の間近だけは安心して吸えるのだった!) うちの住宅13階の火災は自治会の方の努力でどうにか鎮火した様子だ。(この部屋は老人の独り暮らしだったらしい)全くの無風状態だったのが良かった、少しでも風が吹いていれば商店街の火の手は僕らの住宅を含めもっと広範囲に街を襲っていただろう。商店街の大火災で自分たちの部屋のことはすっかり忘れていた。「部屋はまた借り直せるが、人命は取りかえせない」あの時神戸の被災者は一瞬でそのことを学んだ気がする。

公衆電話、次々と通じなくなる?

僕の田舎は鳥取である。とにかく両親に安否を連絡したい。僕は財布を持ってなかったのでおばあちゃんからもらった。駅前の交番の前の公衆電話は長蛇の列だった。誰かが言った。「みんな気持ちは同じだ、用件だけを言って早く次に譲れ」「10円で済ませろ」と。言うとおりだと思った。後から後から、「うちのおばあちゃんが生き埋めだから!」「大怪我してる家族がいるから救急車を」(警察も消防も繋がらないのだが・・・)と、急ぎの電話で自分の順番どころではない。しばらくして僕の順番が来た。鳥取県なので100円を入れたが通じない、10円玉を入れた。繋がった母が出た「とにかくみんな無事だから心配するな」それだけを大急ぎで告げ切った。言葉が足りず田舎の母はかなり心配したそうだがあの場面では精いっぱいだった。その後何度か電話を試みたが最初通じていた公衆電話も次々と不通となった。(100円玉はダメだとか、カードはダメとか、料金箱に10円玉が一杯に溢れてるからや、揺すったら隙間が詰まって10円分ぐらいつながるとか、いろんな噂がまことしやかに飛び交ったが真実は知らない???)

自衛隊ヘリ旋回、何もできず。

こんな大惨事になっているのに、人の持ってたラジオから聞こえた第一報は「関西地方で地震が発生、通勤の足に乱れが出る模様」みたいな、超間抜けなことを言っていた。目の前の現実と情報の格差に驚いた、今日、会社に行く人がいるのか、、、、? 目の前で阪神電車は脱線している、そりゃ通勤の足は乱れるに決まっている。時間の経過と共に少しずつ深刻さを増した情報へと変わっていったが。(今思えば、ここまで大規模な災害だと報道機関自体がマヒしてしまい敏速な情報が掴めなかったのだろう。)自衛隊のヘリが青木商店街上空を旋回しているが、何もせず帰っていった。(後からの報道でそれは視察の為だと分かったが)朝から何一つ食べていない、子供もお年寄りも。せめて、パンでもいいから上空から投下して欲しかった。無茶を言うなとお思いだろうがその時はそう思った。TV局のヘリも続々とやって来ては旋回を続ける。皮肉を言わせてもらうのなら「そりゃ、いい絵が撮れるだろう。」この上空なら、すぐ隣の深江では(皆さんご存じの)高速はなぎ倒され、青木駅の回送電車は脱線し、青木商店街・青木市場は大火災、少し山側の甲南商店街も炎上中、空は煙で真っ黒。誰が見ても悲惨そのものなのだから。報道の大切さはこんな仕事だから分かってるつもりだが、だが、僕ら下から見上げる者としては、あの上から見下ろすヘリはあまり気持ちの良いものではなかった。

なつかしい「コッペパン」

僕らは公共施設の公民館の様な建物にいったん非難した。100人位居ただろうか? そこで本来その日の学校給食用だったらしい「コッペパン」をいただいた。思えば小学生の時このコッペパンが嫌いだった。知らずしらずに贅沢に育った、、、いま、コッペパンが涙が出るほどおいしい。だが、牛乳がないとノドを通らないのも事実だった。(贅沢だな!) まず子供たちに食べさせ、次回もらえるあてもないので半分だけ食べてあとはポケットにしまった。少し落ち着き、そこに集まった知人の親子らと無事を喜びあった。行方の分からない知人達の消息も「家族で逃げるのを見た」とか「公園にいたよ」などの人伝いの話の中からつかめたのでホッとした。また、いつ余震があるかも分からないので頭もとに靴を置いて備えた。TV取材陣が来て取材をしている。寝ている子供やお年寄りもいるが、お構いなしでライトを照らす、まぶいし。ここまで取材に来れたのなら子供たちに食べ物でも持ってきてほしかった。取材の前に人間として出来ることをして欲しかった。おじいちゃんが避難している「老人憩いの家」でも取材陣がブーイングの嵐を浴び適当な取材をし帰っていったと聞いた。

1/17避難所で「赤ちゃんが生まれる!」

僕らは非難所の2階に居たので事の全てがよく把握できないのだが、避難所の職員らしい女性の方が2階に上がってきて「今、妊婦さんが陣痛なんです、この避難所で産婦人科のお医者さんがいらっしゃいましたら手伝ってください」と言っているではないか。おおいにどよめいた。幸いにも中から一人の男性が立ち上がって、何やらカバンを手にして降りて行かれた。口々に無事出産を願った。電気も水もガスもない。産湯も沸かせない、医薬品もない。お産の間も余震はあるだろう。救急車もタクシーも絶対来ない、母は自分の力だけで出産しなければならない。みな、ただ、無事出産を祈った。、、、、あの子は1/17日生まれ。いま1才、元気に大きくなっただろうか、両親はあの子にいったい何という名前をつけたのだろうか? あの日、神戸に生まれた赤ちゃんはどのくらいいただろう? たくましい生命、「神戸復興」は、すでにあの瞬間から始まっていたのだ!

「余震が来たらアカン」再び大移動

そんなこんなで夕方になった。何回かの余震が断続的にあるのでハラハラするが、日も落ち、外は寒い。今日はここで寝泊まりしよう。そう決めていたが、ある一人のおばさんが突然「ここの柱ヒビ入ってるし、こんな建物の中にいたら危ない、寒くても公園に行こう」と、自分の家族に言ったのか、皆に言ったのか、とにかく、皆に聞こえた。一瞬沈黙の後、皆がいっせいに身の回りを整理しだし、ガヤガヤと移動を始めた。午後6時頃だったと思う。実は僕もそう思っていた、壁とか天井を見ると崩れ落ちるという恐怖感を覚えるのだ。日頃から子供たちとよく遊んでいた近くの中央公園で寝ることにする。幸い車(ワゴン車)が無事だったので今夜はこの中で寝よう。実は最初夢中で家を飛び出したもので財布も車のキーも持ち出せなかった。車は必要と思い昼の間に恐々住宅までとりに帰っておいたのだ。僕らは余震のことを考え電柱、ビルの近くを避け公園内に車を停める、20台程の車がすでに非難していた。公園では焚き火をたいた。日が落ちると外は震えるほど寒い、防寒着を着た人、パジャマの上に毛布を巻く人、色々な人がいる。僕らは車の中、外で寒そうに焚き火する人を見ると申し訳ないと思うが、やはり我が子がかわいい。(避難中は常に自分の中の善意と自我欲のバランスを試された気がする。)車のお陰で2才の子供にも寒い思いをさせずにすんだ。僕たちは車があれば暖をとれるので積んでいた釣り用の毛布と防寒着を赤ちゃんと、おばあさんにあげた。やはりなかなか寝れない。AM神戸を静に聞いた、時間の経過と共に亡くなった方の人数が上がっていく。夜遅く、僕らの公園にも又々取材陣がやって来ているようだった。きっと僕ら当事者が一番全体を把握していないだろう、ここにはテレビがないのだから。再び近くでガス漏れらしい、こんなに寒いのに焚き火を消してくれといわれた。1月の深夜、芝生の上に川の字で毛布一枚。赤ちゃんも、お年寄りもいる。 焚き火は消えた・・・。


「進む」で、ぜひ続きを読んでください。次は「1/18早朝 避難勧告 北へ!」
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Nobuyuki Koukata